PECOLOの「顔」とも言えるFoodStand 。
そんなFoodStandができるまでをこのブログを通して詳しく特集したいと思います。
知れば知るほど魅力いっぱいな瀬戸や陶器のこと
愛犬や愛猫の毎日の食事を盛り付けるのに欠かせないフードボール。
セットする器は陶器とステンレスのいずれかを選べるようになっています。以前「 PECOLOの譲れないこだわり 」でステンレスの器についてお伝えしましたが、今回は陶器のフードボールについてお伝えします。
その上で欠かせないのが「瀬戸のこと」です。PECOLOのFood Standにセットするフードボールは瀬戸市で一つ一つ職人さんの手によって作られている陶器です。
どうしても現物を見ないとできない確認作業のため、陶器フードボールの生産地である瀬戸へ伺ってきました。
愛知県瀬戸市にあるM.M. Yoshihashiさんの本社へお邪魔し、お話を伺うとともに、なんと代表の吉橋社長にアテンドしていただきながら、せっかくの機会なので感染対策を厳重に行いながら、作り手である素地屋さんや、窯元の方々にもお忙しい中様々なご協力をいただき職人のみなさんにお話を伺うことができました。
お話の中でとてもおもしろい瀬戸のやきものの歴史、職人さんたちのこだわりや、瀬戸が抱える問題について色々と教えていただき、私たち一人一人が考えなければいけないこと、PECOLOとしてできることなど様々なことを感じ、考える良い機会になりました。
どんなものでも、1つのプロダクトが生まれるまでの背景や、なぜこのデザインなのか、なぜこの素材なのかなど、細かいプロダクトのプロフィールを知ることでさらに理解が生まれ、より魅力が増していくことを改めて再確認した取材でもあったので、これからお伝えしていきたいと思います。
PECOLOの陶器は「せともの」
土の重みがずしっとくる陶磁器でできたものを総じて【せともの】と呼ばれることが一般的になってきていますが、正確には【瀬戸で生産されたやきもの】を指す単語なのだそうです。
なぜ全てをそう呼ぶようになったのかについては諸説あるでしょうが、もしかすると歴史が関わっているのではないかと、今回の取材を通して推察します。
その歴史についても吉橋社長がとても詳しく、そして興味深いエピソードも交えて教えてくださいました。
瀬戸焼の歴史
瀬戸焼きは1000年という、とても長い歴史があります。
これは、日本のやきものの歴史の中で一番古いのだそうです。縄文時代にもやきものはありますが、※釉薬 をかけたものを初めて作ったのが1000年前なのだそうです。
やきものとして瀬戸以外に良く聞く名前に、有田焼や美濃焼がありますが、こちらの歴史は400年程ということで戦国時代あたりから栄えた歴史だということなので、それよりも前から瀬戸はずっとやきものの歴史を刻んできている、いわばやきものの総本山的な存在なのだということがわかりました。
※釉薬とは
陶磁器の表面に施すガラス質の溶液です。これを塗って焼くと、薄い層ができるので吸水を防ぐ効果があり、光沢が出ます。
「うわぐすり」と呼ばれることもあります。
フードボールに釉薬が施される様子
さらに発祥を掘り下げていくと、瀬戸の地でやきものが作られるようになる前は、なんと現在の名古屋にある、あの東山動物園のライオン舎の前が瀬戸のやきものの発祥だったそうです!
余談ですが、このお話を聞いてからずっと、ライオン舎のあたりがどんな場所なのか気になっています。(笑)
話は戻って、そこから粘土を掘ったり木を切ったりしながらだんだんと移動していき、一番良い場所に辿り着いたその場所が瀬戸だったということで、北の方に広がっていったのが「瀬戸焼」、そこから南の方に広がっていったのが「常滑焼」になっていったもので、元々の発祥は同じ場所だったのだそうです。
さらに戦国時代、戦場の真っ只中にあった場所なので、それを避けて美濃の方に移っていったのが「美濃焼」になったというお話をしてくださいました。
大きな歴史の変化とともにやきものが広がっていったようにも感じました。
瀬戸ってどんな所?
愛知県にある人口約13万人の人々が暮らす都市です。
市域の大半を占める丘陵とさらにそこから流れる河川によって豊な自然が育まれています。標高100~300mの小高い山々に囲まれ気候も温暖で、この丘陵地帯には瀬戸層群と呼ばれる新第三紀鮮新世の地層があり、やきものの原料となる良質の陶土やガラスの原料となる珪砂を豊富に含んでいます。
また、この河川の水質が豊かであることも、やきものが長く広く発展している要素の1つなのだそうです。
山の木を切り土を掘っていった結果、大きな池ができた場所
伝説の人物
そんな瀬戸という場所が土や斜面、水(川)、気候に恵まれた焼き物に最適な土地であることを発見した方がいます。
瀬戸のやきものを語る上で欠かすことはできない人物、加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)という方です。
鎌倉時代の前期に曹洞宗の開祖である道元禅師に従って中国へ渡り、やきものの技法を学んで帰国し、やきものを作るために適した土を求め全国を回る中、仁治3年(1242)瀬戸の祖母懐(そぼかい)によい土を発見したことをきっかけに瀬戸で窯を開いたことが、瀬戸焼の開祖となった、というものだそうです。
瀬戸ではこの藤四郎を祀る神社として、深川神社境内に摂社として陶彦社が建立されています。様々な伝記が存在し、学術的に解明されていないところもあるそうなのですが、実際に参拝に訪れた際、この方の存在が現在に至る瀬戸の焼きものの発展に大きく貢献しているのだということが感じられたように思います。
こぼれ話
この加藤四郎左衛門景正という人物ともう1人有名な方がいます。
江戸時代に瀬戸で初めて磁器を作ったとされる加藤民吉という人物です。
ここで気がつくのは、どちらも<加藤>ですよね。
同じ家系なのかと思いきや血縁関係にはないとされるそうで、だとすると瀬戸のやきものの伝説の2人がたまたま加藤だったとのかというと、そうではないと聞いてとても驚きました。
なんと、当時は瀬戸でやきものを作る人は<加藤>じゃないと窯を開けなかったのだそうです。
諸説あるそうですが、尾張藩から「やきもの焼いていいよ」の許可をもらえる家系が<加藤>の名前の家系だったということで、やきものをするために自ら<加藤>になっていったという背景があるのだとか。
明治になり、自由に苗字をつけていいことになった際にはやりたい人がたくさんいたため、みんな加藤と姓をつけたのだそうです。
全国でも加藤という姓は割と多いと思うのですが、「全国にたくさんいる加藤さんも、家系を辿るともしかしたら、やきものをしていた歴史があるかもしれませんね!」と少し大袈裟かなと思いながらも話すと、「瀬戸の地でやきものを学んでから、さらに自分のやきものをやる場所を求めて石川県の九谷焼の方へいったり、福井県の越前焼の方へいったりということをした方も珍しくないんですよ。なので繋がりがあっても不思議ではないんです。」と教えてくださいました。
ふっとした思いつきで話したことだったのですが、とても興味深いお話を聞くことができました。このような職人さんたちの行動が、全国に加藤の姓が広がっていったことと繋がっているのかも知れませんね。 そして、お話してくださった吉橋社長の「小学生の頃はクラスの約半分が加藤さんでした。」というエピソードが、それまでに話してくださった学校では習わない歴史の内容と繋がっているように感じて、とても興味深くもっと色々なことを知りたくなりました。
瀬戸焼とPECOLOの出会い
「 PECOLOの譲れないこだわり 」でも少し触れましたが、遡ること2014年7月24日に、西武池袋で開催された「Lifestyle at SEIBU 2014」にPECOLOのプロダクトを揃えて出展していたのですが、その際FoodStandを見てくださったあるお客様から「うちの子はステンレスの素材が苦手で、陶器の器があるととても良いのだけど…」とご意見をいただきました。
先述しましたが、当時のFoodStandにセットする器はステンレスだけだったので、陶器のメリットも考え「確かに陶器もあるといいな」と思っていたところ、PECOLOのブースの斜め前に出展されていたM.M. Yoshihashiさんが展示販売されていた陶器のお皿が目に留まり、さっそく社長の吉橋さんに「陶器でこういう器って作れますか?」と声をかけました。
すると「はい、作れますよ!」と、こちらの不安を打ち消すように即答してくださったことから、色々なお話で盛り上がりました。これがPECOLOの陶器のフードボールが生まれるきっかけの出来事でした。
M.M. Yoshihashiのプロダクト
そこから吉橋社長と様々な意見を交換しながら試作を重ね、PECOLOの陶器のフードボールが完成していきました。
まだまだ続きます!
と、お伝えしたことがたくさんあるのですが、長くなってしまうのでこの後も続編としてご紹介していきたいと思います!
ここまで読んでくださりありがとうございます。
こぼれ話もまたあわせてご紹介したいと思っていますので、続きをお楽しみに!
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